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坂本龍馬の史跡をめぐる 
近代日本の礎をきずき、30余年の短い人生を駆け抜けた「坂本龍馬」の史跡めぐり。

坂本龍馬歴史年表   幕末史跡めぐり
 坂本龍馬・妻お龍実家楢崎家跡   ■中京区柳馬場通三条下る東側
 
 お龍は,青蓮院宮に仕える医師楢崎将作の長女です。天保12年(1841)に富小路六角付近で誕生し、この地に移り住んだと思われます。父楢崎将作がなくなると、一家はばらばらになります。
 母貞と末妹の君江は、大仏方広寺南門前の河原屋五兵衛の隠居所に、土佐亡命志士が居住しており、その賄いのため住み込みで働きます。
 ここに龍馬が住んでいたようで、これが龍馬とお龍の出会うきっかけといわれています。
 坂本龍馬・妻お龍寓居跡  ■中京区木屋町通六角下る東側
 
 この地はお龍が龍馬に出会う直前まで住んでいた所とされています。龍馬の書簡に書かれたお龍のエピソードに、妹光枝が悪い輩にだまされて大坂の遊郭に連れて行かれたが、彼女が単身乗り込み、連れ戻すというものがあります。
 正確な位置は不明ですが、このあたりに住まいしていた時のようです。龍馬はお龍を紹介した姉乙女宛ての手紙に、お龍の性格を「まっことにおもしろき女」と記しています。
  坂本龍馬・お龍「結婚式場」跡  ■東山区三条通白川橋東入る南側
 元治元年(1864)8月初旬、当地青蓮院の旧境内で、坂本龍馬と妻お龍は内祝言をしました。この地が選ばれたのは、お龍の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智足院が仲人をつとめました。  当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)の起きた年で、京都は物騒な状態でした。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍を寺田屋に託します。
  土佐稲荷(岬神社) ■中京区木屋町通蛸薬師西入る北側
 
 土佐稲荷は、最初に鴨川の中洲の岬に祠を建てたのが由来とされます。江戸時代初期には土佐藩邸内に移され、土佐稲荷と呼ばれ産土神として広く信仰を集めました。坂本龍馬や中岡慎太郎らも詣でたと思われます。明治維新後は、近隣の氏子たちによって社殿が建てられています。
 境内には龍馬の写真や銅像が置かれ参拝者で賑わっています。
 酢屋・坂本龍馬寓居跡  ■中京区河原町通三条下る一筋目東入北側

 坂本龍馬は、江戸に出て軍艦奉行勝海舟(1823〜99)の門に入り、勝海舟の手助けをしていますが、京都滞在中は、材木商酢屋(中川嘉兵衛方)に投宿し、ここを海援隊屯所としたようです。
現在この酢屋の前の道は「龍馬通」ともいわれています。
 寺田屋跡  ■伏見区南浜町263
 慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬が、長府藩士・三吉慎蔵と寺田屋に宿泊していましたが、明け方2時頃、一階で入浴していたお龍が、窓の外の異常を察知して二階に駆け上がり二人に知らせました。
 伏見奉行の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦しますが、多勢に囲まれ龍馬は左手の指を斬られ、屋外に脱出します。
 寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,現在の建物はその後再建したものです。
 坂本龍馬避難の材木小屋跡   ■伏見区村上町
 
 負傷した龍馬と三吉は、隣家の戸を破り小路に出て、濠川沿いの材木場に隠れます。三吉は、伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めます。
 場所は、大手筋と濠川が交わるあたりで、寺田屋からは、およそ5〜600メートルの所です。
 坂本龍馬が助け出された薩摩藩邸跡   ■伏見区東堺町
 
 薩摩藩には、すでにお龍が知らせていたらしく、留守居役が藩の旗印を掲げた船を出して、龍馬を救出します。龍馬の傷は深く、1月29日ごろまで藩邸にとどまり、約一ヵ月後に西郷とともに、船で鹿児島に向います。傷の治療をかねて逗留した霧島温泉への旅が、後に日本で最初の新婚旅行といわれています。
 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地  ■下京区河原町蛸薬師上る西側
 龍馬は京都では海援隊本部のあった酢屋を定宿にしていたが、幕府から追われていたため、土佐藩の出入り商人であった醤油屋近江屋に移っていました。
 慶応3年(1867)11月15日、龍馬と中岡慎太郎は近江屋の二階で、大政奉還後の政局について論じていたといいます。そこに刺客がなだれ込み二人は暗殺されました。二人はともに土佐藩の出身で薩長連合、大政奉還の功労者であり、龍馬33歳、中岡30歳。王政復古の大号令がでる一ヶ月前の無念の最期だった。
 今、この場所にはコンビニがあり龍馬グッズも売っています。
 京都霊山護国神社・坂本龍馬と中岡慎太郎の墓  ■東山区清閑寺霊山町
 
 暗殺された坂本龍馬と中岡慎太郎は18日に近江屋で葬儀が行われ、霊山護国神社に埋葬されました。右が中岡慎太郎、左が坂本龍馬、その奥に下僕の藤吉の墓があります。
 ここ霊山護国神社には、木戸孝允・幾松、池田屋騒動殉難者、禁門の変殉難者など多数の維新の志士たちの墓があります。
 京都霊山護国神社・坂本龍馬忠魂碑  ■東山区清閑寺霊山町

 明治37(1904)年2月の日露戦争開戦直前、明治天皇皇后の夢に坂本龍馬が現れ、日本海軍の勝利は確実だと告げたといいます。皇后はこの夢を、坂本の忠魂のなせるものだと誉めたたえ、偶然に坂本の手紙を持って逓信大臣大浦兼武を訪れた寺田伊助らに手元金を下賜しました。
 寺田伊助らはこの記念に霊山にある坂本龍馬の墓前に石碑を建立し、坂本の忠義を顕彰しました。それがこの忠魂碑です。なお伏見区寺田屋の東隣に同時期に作られたと思われる複製があります。
 維新の道・霊山歴史館  ■東山区清閑寺霊山町

 霊山護国神社に向かう参道は、維新の道と名付けられています。霊山護国神社の南側には、幕末明治維新の歴史博物館「霊山歴史館」があり、館内には幕末の歴史資料や志士たちの墨蹟、ゆかりの品々が展示されています。護国神社で墓参をした帰りに見学するのもいいでしょう。
 


 ■開館時間:午前10時〜午後5時半
 ■入館料:大人700円、高校生400円、小中学生300円

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